2020/07/25

星新一「処刑」

NASAが火星に送り出した探査機からの映像。たくさんの4K静止画をコンピュータ上でつなぎ合わせてパノラマ化した動画とのこと。



この動画はElderFoxというソースからのリンクだが、NASA本家には息をのむような映像がいくつも上げられている。

標題にした星新一氏の「処刑」という作品は、火星が舞台となっている。未来の地球では、殺人を犯した者は委細に関わりなく、火星へ流刑となる。ある程度のテラフォーミングがされた後なので、最低限の酸素はあり、シェルターは存在するが、それだけ。流刑者には水と食料を供給する装置が供与されるが、それにはある機能があって...

NASAの4K映像はそんな作品世界を完璧に「実写化」して見せてくれる。ストーリーを語る愚は避けるので、興味を惹かれたらぜひ図書館なり書店なりへどうぞ。

ようこそ地球さん(新潮文庫)



星氏は10ページに満たない「ショート・ショート」の名手として知られるが、初期の頃から短編集1冊につき、1つか2つ、やや長く、予想外の「オチ」がない作品が含まれている。「処刑」はそんな作品の一つ。この本にはもう一つ「殉教」という、これまたやや長く重い作品があり、どちらも文句なしの傑作。

先日、書店に行って文庫コーナーを見たら、COVID-19と関連性のありそうな本をそろえたコーナーがあった。デフォーとカミュの「ペスト」が並んでいたり、小松左京「復活の日」があったり、その他フィクション、ノンフィクション合わせて色々と。他にもウイルスによる人類滅亡SFなら、ティプトリーJrの「エイン博士最後の飛行」もあるよな、黒死病ネタならデカメロンか、今ならZoom接続でデカメロンができるな、などと思いながら眺めていた。

その時ふと感じたのが、あ、「処刑」って現下の状況の寓意としても読めるか、ということ。かつての日常も、現在のこうした日々も、どちらにしても、生命維持装置をかかえて火星の砂漠をさまよう流刑者と本質的には大差ないんじゃね?と思ったり。大袈裟すぎる、飛躍しまくりの感慨ではあるけれど、この作品を憶えておいでの方は、共感してくれるだろうか。

2020/07/16

リモート空間でニュータイプ?

「塾」2020 Summer (No. 307)



標記題名の記事を掲載していただいた。興味を持たれた方はこちらまで。本来なら大学のキャンパスでふつうに手にとることができるのだが、今は事情が違うので、ここで紹介させていただこうかと。

2020/07/15

ヒップなグノーシス

Storn Thorgerson氏、4月に亡くなってたのか。69歳とは、まだ若い。惜しい。イギリスのアート集団、ヒプノシスの中心人物だった。



ヒプノシスといっても、催眠術ではなく、Hipgnosis。1970-1980年代の洋楽になじんだ者にとっては、Pink Floyd, Genesis, Led Zeppelinなどなどの素晴らしい「LPレコード」ジャケットのデザイナーとして記憶されていることだろう。一番有名なのはフロイドのThe Dark Side of the Moonのジャケットだろうが、個人的には10ccのジャケットも印象深い。楽曲がウィットにとんでいて、同時にけっこうシュールな面もあるので、ヒプノシスのジャケットはドンぴしゃだった。ちなみにDeceptive Bendsのジャケットはサザンの海のYeah!!に分かりやすく「オマージュ」されている。

そのヒプノシス、アートワークが「画集」の形でも出版されているのでつい手が出た。とうに絶版になってたもんで、保存状態の悪い中古を買ってしまったが、それはそれで仕方ない。一枚目の左側がそれ。

その後、アマゾンで関連タイトルを紹介されて、見事に乗せられたw 一枚目の右、二枚目のあれこれ。これらは幸いにして新品である。なおThorgerson氏ご本人は亡くなったが、ウェブサイトは存続している(生前に比べて情報量は少なくなったが)。

こうして見返すと、LPのジャケットは身近に感じられるアートだったなぁ。音源そのものは、今はCDからPCに置いて聞いてるけど、ジャケット惜しさにLPも処分できずにいる。喫茶店などでも、LPジャケットを壁に展示したりして雰囲気を出しているお店がときどきあったな(今もある?)。ヒプノシス以外でも、ギーガーの手になるELP「恐怖の頭脳改革」(<原題がBrain Salad Surgeryで、直訳すると「脳みそサラダ手術」w)なんぞはインパクト大だった。これからはCDすら消滅して、ダウンロードやストリーミング主体になるから、「ジャケット」のありようも変わっていくだろう。もっとも、それはそれで、新しい展開もありだから、うまくいけば面白いかも。

(初出:2013年06月)


追記:とある写真関係のサイトで、テーマを決めてコンペという企画があり、偶々見つかったのが、フロイドのComfortably numbをテーマにした写真。優秀賞をとった作品で、実にヒプノシス的な出来栄えである。自分の本の表紙に使いたいものだ(まあ言語学じゃムリか)。

征服王と税金と

ええ、しょーもない語学ネタです。
イスカンダルについてwikiで調べた。イスカンダルといえばスターシャ、大宇宙の映像が出るとなぜか必ず女声のスキャットが聞こえてくるという演出が定着したのは宇宙戦艦ヤマトの功績だと思うが、今回はそちらのイスカンダルではなくて、同じアニメでもFate Zero、大王のほうのイスカンダル。

アレクサンドロスがなぜイスカンダルに? 調べると、Alexandrosのal-がアラビア語では、一種の接頭語(つか冠詞?)と誤認されたのが起源だそうで。アル・何とかってよく聞くから、あのアルね。しかし、残りの部分の-exandrosは「エクサンドロス」だから、「イスカンダル」になるにはまだステップがあるんじゃないかと。なお、最後のosは活用語尾だから他の言語に入るときは捨象されることが多い。日本語のwikiでは理由が不明とあったので、それならばと、ちょっと調査。発音記号風に書くと、

e > i
ks > sk

の二つの変化があったことになる。前者はよくある母音変化で(アラビア語はaiu3の母音だから、aiueoの5母音からマップするとそうなってもおかしくない)、では後者は、というと、ks と sk の転位(正確には音位転換metathesis)はあちこちの言語で散発的に見られるとのこと。で、具体例は?と調べたら、英語では

tax [taks] <-> task

が同語源だとか。確かに「税金」と「義務・課題」は意味も通じる。転移という現象は比較的稀で、それが起きる音も限られているそうだが、ksとskの転換はその一例ということのようだ。

というわけで、調査完了。探偵ナイトスクープの小ネタみたいだ。好奇心が満たされたのでめでたしめでたし。

(初出:October 2012)

2020/07/10

白露




梅雨の合間に、機材と書籍の運び出しで久しぶりに研究室に行った。植え込みに見つけた風景。すべて世は事も無し(<違うって

三田の先生と氷川の御前様

丸山真男 1986『「文明論之概略」を読む』上中下(岩波新書)



あるとき人と話をしていて、丸山真男の名前が出た。それって誰だっけ、本持ってたかな、と記憶をたどりつつ書棚を見ると、新書を雑然と並べてあった場所に見つけた。持っていたのは『「文明論之概略」を読む』だった。

だいぶ前に手に取ってそれきりだったので、今日の医者の待ち時間に再度読み始めた(1時間半くらい待たされたのでだいぶ進んだ)。

丸山氏のこの本、「読み手」のほうも一流なので、古典が生き生きと立ち上がってきて、一粒で二度おいしい。福沢先生自身は多面的で、一つの尺度では割り切れないと思うが、それだけに、丸山氏の筋の通ったフィルターを通して選ばれた「文明論之概略」からの引用は、独自の意義を持つと思う。

「人、或は云わん、人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可からず、尚別に永遠高尚の極に眼を着す可しと。此の言、真に然り。人間智徳の極度に至りては、其の期する所、固より高遠にして、一国独立等の細事に介々たる可からず。僅に他国の軽侮を免かるるを見て、直に之れを文明と名づく可からざるは論を俟たずと雖ども、今の世界の有様に於て、国と国の交際には、未だ此の高遠の事を談ず可からず、若し之れを談ずる者あれば、之れを迂闊空遠と云はざるを得ず。」

しばしば格言のような形で引かれる、「一国独立」という理念を「細事」と言ってのけるのを見て一瞬ギョッとしたが、前後を見ると、それは「智徳の極度に至りては」というIFの世界でのことだとわかる。「其の期する所、固より高遠」というのもなるほど。それは一種のユートピア、老子のいう小国寡民の世界か。そんな時が来るのか、と言われれば、安易にイエスとも言えないが、1000年もあれば何とかなるんじゃないかと思ったりーー「たとえそれが那由他の彼方でも 俺には充分に過ぎる」(アンデルセン)。

それはさておき、原文に戻ると、「今の世界の有様に於て」考えてみれば、無自覚に理想主義を語れるような状況ではなく、そんな話をする者がいたら「迂闊空遠」である、と。遠い理想と目に見える現実の両方をにらむ、というのは決して易しいことではない。これは現代のわれわれにとってもリアルな課題である。



そして下巻へと進む。もうすぐ読了まできた。線を引いて記憶にとどめたくなるパッセージが山盛り。例えば...

「国と国との交際に至りては唯二箇条あるのみ。云く、平時は物を売買して互ひに利を争ひ、事あれば武器を以て相殺すなり。言葉を替えて云へば、今の世界は商売と戦争の世の中と名づくるも可なり。(中略)今の世界に行わるゝ各国の戦争と貿易との情実を尋れば、宗教愛敵の極意より由て来りしものとは、万々思ふ可らざるなり」

福沢先生はよくリアリストと言われるが、こりゃもうアカギなみのニヒリストの域と紙一重ではないか。上の「相殺」は「打ち消す」ではなく本当の殺し合いである。これが文明開化でヒャッハーしていたころの明治初期に書かれたというのも、実にとんでもない話である...と最初思ったが、ひょっとしたら幕末・維新を生き延びた人々にとってはむしろ当然のことだったかも。

そして丸山氏の曰く...

「福沢に戻るならば、西洋から学んだ「天地の公道」をたんに「建て前」とするだけでなく、本当に「慕う」ことによって、まさにそれを、権力政治で立ち向かってくる列強の胸にさかさまにつきつける資格ができるはずです。さあ、お前たちは国境を撤廃し、政府権力を廃止する覚悟と「術」(方法)があるか。もしインターナショナリズムの行きつくところを知らないで言っているのなら、「結構人の議論」であり、またもし知りながら「情実」を美化しようとするなら偽善ではないか、と迫る福沢の鋭いまなざしが、このあたりの文章から浮かんでくるようです」下巻p. 240

こういう読み込みをする丸山氏もすごい。なお「結構人の議論」とはお人好しのご都合主義だそうで(すなわち脳内お花畑)。この本が出たのが1986年で、冷戦末期なのだが、インターナショナリズムをグローバリズムと置き換えれば、むしろ冷戦態勢崩壊後の現代にこそあてはまる。この人は形骸化した左翼とは違う、自由で強靭な思考の持ち主だったということがうかがわれる。



木下直之. 2013『戦争という見世物 日清戦争祝捷大会潜入記』(ミネルヴァ書房)



最初に題名を見た時は(「捷」は「勝」だそうで)、数年や数十年のスケールでメディアの報道を追っていくスタイルか、それともいろんなケーススタディをまとめた本なのかと思ったが、そうではなくて日清戦争当時の明治のある一日、その一点のみに絞り込んで、当時の記録を執拗に掘り起こした再現ドキュメンタリーになっている。精度の高い個別研究は一般性・普遍性にたどりつく最良の道だということを再認識。

で、いきなり前書きで唸った。といっても著者の文章にでなく、この本が描き出している同時代にはまだ存命だった、氷川の御前様の述壊に...

「日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂやないか。たとへ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かつたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。」p. viii

氷川清話は読んだはずだが、まるっきり内容が頭に残ってなかったw 御前様、中国との関係を兄弟といい、これに続く箇所では「昔時から日本の師」と言っているが、その実、清国が張り子の虎だとバレないうちに商売に励めとおっしゃる。今にして思えばその通りだったのだが、あの時代にこうして見通す、これまたニヒリズムと紙一重の眼力、さすがに幕末の修羅場をその最前線で生き抜いた(どころじゃなく、自ら幕引きの任を負った)勝海舟ならでは。

思えば当時の清国は西洋の帝国主義にとって最後のフロンティアで、わけても最新にして最強の列強たる米国の狙い目だったのであろう。太平洋戦争の惨禍に至る伏線はたくさんあれど、欧米の列強がそこまで中国大陸の利権に執着すると当時の日本人が思わなかったことはその一つだったかもしれない。列強はありあまるほどの領土と富を独占していたのだから、東洋の隅っこでコソコソやってるぶんにはお目こぼししてもらえるだろうと高をくくっていたのが間違いだった...と今さら思っても仕方ないけれど。ちなみに御前様、上記の引用のすぐ後で、「ともあれ、日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張って居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ」とさらに日本の行く末を見通した言があり、流石である。

もしも日清戦争が起きず、適当なところで手打ちをしていたらその後の歴史はどうなっていただろうか。日露戦争は勃発せず、ロシア革命は成就せず、毛沢東は台頭せず、などと空想するのは面白いが、あまり妄言を垂れ流してもしょうがないので、今日はここまで。



[某氏1からのレス]
そういうifを楽しむのが仮想戦記の醍醐味だったんですがねぇ。どこで間違えたのやら、もはや瀕死のジャンルに・・・(T_T) 似たようなif世界物として【蒼海の世紀】が面白いっすよ。

[某氏2からのレス]
日清戦争前後の対中外交にあったとも言えそうですわな。>この辺のをネタにして月刊アフタヌーンで安彦さんがまた描いてますな。 昨日生協で立ち読みしたらラスト近くで安さんが石炭運んで悪態ついてました^^

(初出:July 2014 & January 2015)

日本語と世界の言語の名詞修飾表現

プラシャント・パルデシ、堀江薫(編)2020『日本語と世界の言語の名詞修飾表現』ひつじ書房

言語類型論は、形態論、および統語論でも単文の構造(基本語順、格標識、一致など)の研究が先に発展した。複合的な構造の中では、名詞修飾、特に「関係節」と呼ばれる構造が早くから注目を集めてきた。その後、研究の進展によって−−日本語からの寄与も大きい−−関係節の本質を問い直す作業もなされている。本書はそうした成果の上に立ち、広範囲の言語からの事例報告と理論的考察を提供している。



COVID-19蔓延によるキャンパス封鎖のため、手元に来るのが遅れた。今学期は間に合わないが、次の学期ではさっそく授業の題材に組み込むことにしよう。

2020/07/05

NICEな論文

他エントリーで紹介した、『認知言語学の羽ばたき』、その冒頭にある松本曜氏の文章の中に、論文を書く上で示唆的な部分があると紹介時に書いた。今は七月、ちょうど塾生諸氏も期末レポートにとりかかる時期でもあり、ここで紹介したい。

「良い論文とされるものには、4つ要素がある」(p. 4)と松本氏は説く。これらの要素とはN=new(新しい知見), I=integrated(まとまり、一貫性), C=clear(明晰さ), E=empirical(経験科学としての妥当性)、頭文字をとってNICEになるという次第。とても分かりやすいアドバイスである。

多少補足すれば、新しさというのは多分に相対的なものである。学生のレポートでも、まずは自分にとって新鮮に感じられる事柄を報告してほしい。もちろん、新発見だと思ったことが、さらに調べたらよく知られていることだった、ということは誰にでもある。先行研究にあたる理由は、研究のアイデアを得るためだけでなく、自分の考えがどのくらい新しいかを確かめるためでもある。同時に、自分が提示する事柄には客観性の保証が求められることも念頭に置いてほしい。「自分がそう思ったから」では弱いので、複数人への聞き取りやアンケート、コーパス利用による数値的な偏りの認定、翻訳を利用した対照言語分析、条件をコントロールした実験(アンケート調査も設定次第では実験と同じ)などを採り入れることができれば素晴らしい。

それでは皆様、Have a NICE weekend!