2022/05/25

ダイクシス講義

チャールズ・J・フィルモア 2022『ダイクシス講義』開拓社

原著は1997年にCSLIから、オリジナルは1971年に行われた連続講義Santa Cruz Lectures on Deixisで、それを文字化した準公式版が1975年に出ている。「準」というのはネット時代では想像しにくいが、正式の出版社ではなくIndiana University Linguistics Clubという「同人」が著者の同意を得て限定部数を印刷して通信販売していた時代の公開形態をさす。自分は1997年版を持っていたが、今年になって日本語版が出た。オリジナルの「同人版」から50年近く経っての邦訳、目出度いことである。

 


ダイクシスは言語学の中で重要ではあるが包括的な理論化が長らくなされずにいた。1980年代にダイクシスについて包括的な枠組みを提示していたのはStephen Levinson (1983) Pragmatics. Cambridge UPの第2章だったが(院生時代ヒマだったんでじっくり読んだ)、この章はほぼまるごとフィルモアに準拠している。直近ではLeonard Talmyによる移動表現の語彙類型に対するアジア言語からの重要な修正としてダイクシス動詞(日本語ならば「行く」「来る」)の位置づけがさかんに論じられている。一例として国立国語研究所のこちらのプロジェクトを参照。優れた研究というのは時代が変わっても読み直してそこから重要な洞察を得ることができる。本書はその典型例と言える。

それだけではない。この日本語版、訳者解説が素晴らしく充実している。フィルモアの事績については包括的に解説したものがあまりないのだが(2006年に東京でのICCG 4開催に合わせて『英語青年』2006年9月号に掲載されたインタビュー「第4回国際構文理論学会開催記念――Charles J. Fillmore 教授に聞く(聞き手・翻訳: 長谷川葉子/小原京子)」は希有な例外)、そのギャップは澤田氏の情熱あふれる解説によって見事に埋められた。こちらの記事で「フレームとは何か、その理論上の位置づけはどのようなものか、ということについては、いずれ記事を」などと書いたが、「いずれ」はだいぶ先のことになりそうで、ある意味安堵。

おまけ。Remi van Trijpというコンピュータ言語学系の抜群に頭の切れる研究者がいる。彼がブログ上で"Fillmore's dangerous idea"というエッセイを公開している。フィルモア流の構文理論についてその革新性を評価しているので、興味がある方はどうぞ。なお、同名のショートトークもYouTubeに上がっている。



アンブロークンアロー

神林長平 2009『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』早川書房

著者のライフワークとなった戦闘妖精・雪風、第三部。出て即購入したが、完結ではないので本棚で寝かせていたところ、この4月に第四部『アグレッサーズ』が出た。さあどうしよう、と思案したが、最初のページを開いたらもう止まらない。

 


第一部の紹介をどこかのSNSだかブログだかで書いた時は「友よ、これがSFだ」などというベタな言葉を発したが、今もそう思う。SFの定義については、プログレの定義と同じくらい百家争鳴(というか偏執きわまるバトル)が日夜繰り広げられている。一つ自分で気に入っているのが、SF=speculative fabulationとアクロニムを読み替えたやつ。神林長平の作品はその極みだ。戦闘妖精・雪風は第一部から「他者」と「機械」がキーワードだったが、やがてそこに「絆」がからみ、第三部ではついに「言語」と「意識」がFAF特殊戦の最前線に投入される。

続く第四部の最初のページを開くのは、今なのか、それとも第五部が出てからなのか、それが問題だ。