2023/12/21

変化球をひとひねり

ChatGPTが一般リリースされてもうかなり経つ。そういえば昨年度の期末(今年の1月)に出てきた英語のレポートの中にやけにこなれた文章が幾つかあったが、もう使ってた学生がいたのか? その後、今年度に入ってからはあれこれ会議などでも話題になった。ただ、単純なコピペによる剽窃と違って、採点する方も色々困る。ChatGPTにもそれなりのクセがあり、適切な答えを出すのが苦手な問いの出し方に気づいたりもしたが、技術の進歩は速いので、そのうち手玉にとられることだろう。

この種のAIについてはすでに大量の観察・考察が出されている。基本線としては、文章作成の有力な支援ツールとして使えると思う。元々、従来の記号計算(形態素などの記号を規則に従って配列することで文を生成)とは違い、統計的によくある語の結合からなるチャンクを出力してくれるわけだから(たぶん)、自然な表現になるのは当然だ。これは非母語話者にとっては非常に有り難いことで、おおよそ言いたいことは言えるが、ネイティブらしくない表し方になってしまった場合など、よりスムーズな表現に直してもらえる。

ここで、変化球。これは「発信型」を指向する言語教育の終わりを意味するのではないか? つまり、外国語による発信はAIのおかげでほぼ達成されたんじゃ?ということである。日本の研究者が国際的な成果の発信が十分にできないのは言葉の壁があるせいだと言われることがあるが、その問題はほぼ解決されたように見える。ぎくしゃくした英文を、AIが達意の英文に直してくれるのだから。これで海外での研究発表のハードルが下がるはずだ。ついでに言えば、ボイスチェンジャーみたいに発音の修正をリアルタイムでするガジェットも技術的には実現可能だろうから、口頭発表だってハードルは下がるだろう(何ならボイスアバターもあり)。

思えば平成が始まり、日本中で大学の教育内容や制度が大きく変わる中、そしてバブルの余韻さめやらぬ中、「国際化」のためには文字テキストを読んで辞書を引き引き日本語訳するような「受信型」の言語学習はもう古い、 これからは「発信型」だ、という声が世間を満たしていた。その頃から、そして今でも、「発信型」は英語の教科書、参考書、あるいは大学のカリキュラム改革における顕著なバズワードである。そういえば単語帳や文法書まで「発信型」というラベルがついていたが、あれは何だったんだろう。

だがしかし、言語を学ぶ、それも「教師つき学習」の必要性がなくなるのか、と言えばそうではない。これからは「受信型」学習の復権の時代だ、と言いたい。これは逆張りなどでなく、言語理論からも、そして教育上の要請からもむしろ順当な考えである。自分としては本当は変化球のつもりはないが、まあ世間的にはそう見えるわな、ということで。

・ポイント1、生成系AIは「解釈」をもたない(と思われる)。行間も読まない。ChatGPTを少しいじった限りでは、比喩や皮肉などの「ズラし」は苦手なようである。人間界でも、優れたコミュニケーターとは弁舌爽やかに一方的に話す人間ではなく(これはむしろ機械の得意分野だ)、相手の話に耳を傾け、言外のニュアンスまで読み取った上で相手に合わせて言葉を発することができる人間だろう。解釈の仕方を実践的に指導することは言語教育の役割の一つである。

・ポイント2、正しさの判断は誰がするのか? 解釈あるいは深読みは何通りもの可能性がある。解釈のスキルはすぐに身につくものではない。言葉や状況から世界の「モデル」を作り、それに照らして「察し」(論理的正しさの保証がない推論)をすることは、多数の試行を通して身につくものだろう。

・ポイント3、高度なリテラシーを身につける。クリティカル・シンキングに必要なことは何だろうか。言葉の細かい襞に分け入り、微妙な差異を把握すること。論理的な整合性と共に、その時代の社会的通念との整合性を測ること。証拠の妥当性を仔細に検討すること。そして人間としての皮膚感覚で是非を直観すること。これらはある程度マニュアル化できても、結局はかなりの部分が「手作業」になる。昔懐かし「訓詁の学」は、エリート教育としてのクリティカル・シンキングでもあったのだ。

・ポイント4、知識の組み替えをする。解釈した内容を非言語的な情報(すなわち概念)まで一般化&抽象化したら、それを組み替えることを人はしばしば行う。要するに「発想」のステージである。そうした発想に刺激を与え、展開させること。ここでも意志と価値観をもった「他者」 が必要である。

あれこれ書いたが、「良き受信者、高度な受信者」を養成できるのは、今のところ人間だけである。そしてそうしたスキルの重要性は、過去の時代と比べて、いささかも減少していないはずである。AI支援による発信スキル向上と、教師の支援による広義の受信スキル向上がうまく組み合わされば、新時代のより高度で効果的な言語教育が生まれると思うのだが、どうだろう。


2023/11/29

ORF 2023

 

今回は研究室で初出展&トークセッション参加。

多くの皆様のご来場、あらためて感謝申し上げます。

研究室のメンバーにも感謝。

2023/06/21

榛名神社(Nov. 2015)

秋も深まる頃、ふと思い立って訪ねた。


艦内神社の分祠元巡りとしてはこちらが最初。白山比咩神社がその次。まだ二カ所しか行ってないのだが。赤城山にはこの時は行けなかった。



参道は見てのとおり、かなり急峻である。他に人もなく、周りは自然音だけ。「森厳」という形容がふさわしい。本殿は不敬につき写真はとらなかった。しかし古来の山岳信仰そのままにそびえる御姿岩を見上げると、ついつい艦橋を連想してしまった。

榛名湖の逆さ富士(榛名富士)。この日は雨がちで天候には恵まれなかったが、天気のよい日なら夕暮れがきれいだろう。


2023/06/19

認知言語学(中国語版)

大堀壽夫. 2023. 中国語版『認知言語学』商務印書館.

数年前に始まった企画で、今年無事出版された。中国サイドもCOVID-19やら何やらの苦労は少なからずあったことと思う。あらためて翻訳の労をとって下さった方々には深く感謝したい。

中国語版の「緒言」はこちら。自分自身が、過去と未来を繋ぐ役割を2023年において果たしているかは心許ないが、 時間と能力の範囲でやれることをやるだけである。


2023/05/16

金沢(Apr. 2023)

 兼六園の桜。



とあるイベントで行ったのだが、素晴らしい桜の景色に出会うという僥倖。



 ありがとう立川先生、ありがとうTechnics。



2023/05/14

啓翁桜

最初見た時は慶應にかけた名前かと思っていたが、そういう品種がちゃんとあることを最近知った。山形県産がよく知られているとか。


COVID-19の広がる前の話し(たぶん5年前くらい?)。高校のクラブのOB & OG会があった。同期の仲間から「父親の記念碑だか記念樹だかがSFCにあるって聞いたんだけど、自分はまだ行ってないから今度見てきてよ」と話を振られた。この仲間のお父上というのが、総合政策学部創設から支柱となってきた加藤寛氏。すぐに探しに行けば良かったのだが、この春にやっと花をつけた啓翁桜を訪ねたという次第。40年以上が経ち、高校のクラブ活動も今では遙か遠くに見える景色となってしまったが(ちなみに彼がキャプテン、私がサブキャプテン)、貴重な思い出である。

加藤寛名誉教授植樹の会(2013)  

引きで見るとこの位置。来年も春を知らせる先魁となってくれることでしょう。


 

2023/03/23

言語文化とコミュニケーション

宮代康丈&山本薫 (eds.) 2023 『言語文化とコミュニケーション』 慶應義塾大学出版会.
(シリーズ 総合政策学をひらく2)


SFC創設30年記念の一環として企画された「総合政策学をひらく」シリーズの一冊。ご一読あらんことを。
 

そして春よの

 

彼岸の帰り、偶々会った親戚が持たせてくれた。今年は桜が早いな。


2023/01/24

気分はポルナレフ

Michel Polnareff, "Tout, tout, pour ma chérie" (公式から)

 

あ…ありのまま今起こった事を話すぜ!
「おれは フッサールの主観性概念について調べていたと思ったら いつのまにかヴィトゲンシュタインを読んでいた」
な…何を言っているのか わからねーと思うが 
おれも 何をされたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…二元論だとか記号論理だとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…

Jeff Coulter. 1979. The Social Construction of Mind. Macmillan. (現在はSpringer Natureのsubsidiary)


授業も終わったところで、ない頭をひねって普段読まないものに取り組むのも、まあいいか。なお邦訳も『心の社会的構成』の題名で新曜社から出ている模様。どっちにしても、手強い、とりわけ「認知」に軸足を置く人間にとっては。

…にしてもヴィトゲンシュタイン。Tractatusの4.002、「言語は思考を〜」というくだりは私もどこかで書いたエッセイで引用して、したり顔をしたような覚えがあるが、その直前、

Die Umgangssprache ist ein Teil menschlichen Organismus und nicht weniger kompliziert als dieser.

すいません、見落としてました。「話し言葉は人間のOrganismusの一部である」なんて、こちらの人たち(私も含めて)のためのスローガンじゃないか。おまけにOrganismusを「生体組織」と訳せば、吹けよ風、呼べよ嵐の大論争カモーンてなわけで。

にしても今宵は寒い。 皆様もお大事に。



2022/12/31

社会言語学の枠組み

井上史雄&田邊和子 (eds.) 2022 『社会言語学の枠組み くろしお出版.

社会言語学という分野は歴史も長く、研究者の裾野も広い。概説書も充実している…と思っていたが(いや、それはそれで確かなのだが)複数著者による広い範囲をカバーしたコンパクトな入門書は案外見かけない。ちょうどいいタイミングで出てくれた本と言える。

 

 

学部の言語関連の入門的授業(「言語」とか「言語と文化」とか「言語と人間」とか)で使うのにも好適。「社会言語学」と銘打たない授業で使い、初手からこの分野に引き込める。

社会言語学の基本トピック−−性差、年代、地域、場面、などの社会学的属性と言語の関係−−に加えて、意味論(堀江)、語用論(小野寺)、談話分析(メイナード)と通じるトピックが含まれており、 その意味でも言語一般の授業には向いている。同時に、社会言語学を専攻するようなゼミや演習では、この本をバックグラウンドリーディングとして指定することもできるだろう。個人的には国際化社会における言語接触についての章があるとよかったと思うが、関連トピックは第3章「言語間の格差」でカバーされているので、そこを切り口にサーチすることもできるだろう。

 

Key Concepts in Experimental Pragmatics

Yoichi Miyamoto, Masatoshi Koizumi, Kazuko Yashiro, and Uli Sauerland (eds.) 2022. Key Concepts of Experimental Pragmatics. Kaitakusha.

通常科学というものが仮説、実験、検証、という手続きを踏むものだとすれば(もちろんここに「思弁」や「形式化」も加わる)「実験的」という形容をするのは冗長とも言える。研究者個人の内省に訴えることが効率的な「心理実験」であるというような戯れ言はもはや通用しない。本書はそんな時代の過渡期にあって、アプローチは多様であるが、語用論の諸問題に通常の意味で「経験的」な方法で取り組む試みを集めたものである。

 

方法論の探索という点では、第二部が演習などで使いやすそうだ。章題だけ再録すると:Event-related potentials, Self-paced reading method, Experimental pragmatics using Functional Magnetic Resonance Imaging (fMRI), Cross-linguistic formal pragmatics, Computational modeling, Statistical methods for experimental pragmatics, Experimental methods for the acquisition of pragmaticsとなる。全く同じことをやるのは難しいにしても、主観的移動、比喩的意味、ブレンディングなど、認知意味論の研究トピックもまたこうした方法論で研究することは可能だろう(興味深い実績が出ているのも知ってはいるが、今後はさらに増えることを期待)。