2020/05/04

英語辞書について(フリーク編)

辞書の世界は奥深い。アビスである。私は第一層でうろうろするのが精一杯で、第二層すら恐ろしい。冬も去り、灯油のポリタンクを収納して心の平安を得ているのである。な、何を言っているのかわからねーと思うが、めんどい人はこちらへどうぞ。


自分は−−ある意味幸いにして−−本格的に辞書作りに参画したことはないのだが、周りには関係者がそれなりにいたので、それがどれほど畏怖すべきことかはわかるつもりだ。デジタル技術が発展する前は、辞書作りは人生と等価交換の事業だった(今でもそうかもしれないが)。

また、辞書を作る事業に参加しなくても、世の中には辞書蒐集家という人たちがいる。これまた恐るべき人たちで、私は幸いこのグループにも属していない。そもそも資金も保管場所もない。辞書の新版を買ったら旧版はたいてい処分する。

そんなわけで、以下の話は深淵をのぞき込みはするが、自らそこに踏み込んでいくことはしない、「夕闇に留まっている」輩による、一般人からすればマニアックな、けれども業界人からすればペラッペラなエピソードである。辞書に対する深い造詣と愛情ではなく、一点突破の偏愛から来る昔語り・自分語りということで。やっぱりめんどい人はこちらへどうぞ。


三田の英文科に進んで最初に習ったことの一つが「辞書の使い方」だった。辞書といってもOED (=Oxford English Dictionary)。時は19世紀、大英帝国の栄華が極みに達したころ、英語という言語のすべての単語の、最初の文献記録から「現代」に至る全ての用例を網羅する辞書を作ろうという企画が立ち上がった。それは数十年の時を経て、1928年にひとまず完成した。広く利用された初版が12巻、20世紀末に出た二版が20巻からなる。慶應の英文といえばもともと中世文学が王道であるから、古いテキストを精確に読むためにこの辞典の利用法に馴染むことは不可欠というわけである。なお、OEDのメイキング話は色々あるが、初代編集者の物語はCaught in the Web of Words、彼と調査協力者の一人の関わりを描いた物語はThe Professor and the Madman、どちらもおすすめ&日本語訳あり...というか後者は去年(2019)メル・ギブソン主演で映画化されていたことをさっき知ってびっくり。日本では2020年公開予定とあるのだが、どうなることか。

話は変わってCOD (=Concise Oxford Dictionary)、上の赤ジャケットの辞書である。手元にあるのは初版だが、1911年に出た本当に最初のものではなく、1914年に若干の補遺が加えられた版で、何刷かは記載がないが1925年刊行とある。それでも95年前のものだから、自分の手持ちの中では当然ながら最も古い本になる。なお、2011年には出版100周年を記念して、復刻版が出た。これを買った辞書好きはけっこういると思われる。CODはOEDの編纂と分冊ごとの出版が進んでいたころ、その基礎資料を使って一般読者が利用できる小辞典を作ろうという意図で作られた。しかし、OEDの「歴史主義」(過去には使われたが既に廃用となった語や用法もすべて年代順に記述)と「原典主義」(権威ある書き言葉テキストから用例を採取)を保ちつつ、一冊本の小型辞書を編むことは無理がある。結果、古い用法はふるいにかけられ、用例も短く示唆的なものに置き換えられて、全く新しい辞書が誕生した。情報を詰め込めるだけ詰め込んだので、略語は多いわ説明も「皆まで言わん」式だわで、決して使いやすくない。今時の実用にはさすがに適さないが、ときどき読み直してみると十分に楽しめる。

一つ二つ例を挙げると、19世紀から20世紀への変わり目に現れた単語がいくつか収録されているのが面白い。ためしに補遺部をZから遡って眺めたら、Zeppelinがいきなり目に入った。正に20世紀初頭の出来事である。乗り物つながりでいうと、飛行機という意味でのplaneはない。ただし、aeroplaneは本編にある。ついでにラジオは?と思って見ると、ラジオの意味でのradioはない(radioactiveは間に合ったようで記載があるが)。また、新語でなくてもgentleを見るとイギリスの階級(紳士・郷紳)としての意味が真っ先に出てくる。20世紀初頭なら、これは「歴史的意味(古義)」ではなかっただろうが、現代ではメインの用法ではない。辞書マニアならば、歴代の版におけるgentleの記述の変遷をチェックして楽しむことだろう。

このCOD初版は大学二年のとき、家の近所(いちおう大学町)の古本屋でたまたま見つけた。都心の大学が競うように地方移転する前の時代で、卒業生か退官した教授が手放していったのだろう。本屋ものんびりしたもので、お値段は1,000円ちょうどだった。英文科に進んで間もない時で、ある教授に「買ったほうがいいですか?」と尋ねたところ、「まあコーヒー何杯分かガマンする程度のことだから、買っとけば」と言われ、素直に従ったのだった。後になって知ったが、私の地元にあった大学は、慶應、東大と並んで東京における英語史研究のかつての一大拠点であり(移転して改組して名前を変えてまた元の名前に戻して、と忙しいあの大学である)、今にして思えばあの古本屋にはお宝がもっとあったのだろうな、とちょっぴり残念である。




さっき、OEDの編集方針を保ちつつ一冊本の辞典を作るのは無理だと言ったが、あれは実は事実ではない。手元にあるのは、「岩波 英和辞典」。初版は1936年、1958年に版を組み直して増補した新版が出て、自分はその17刷(1973年)を持っている。これが、偉大なる文化遺産なのである。いわゆるコンサイス版で、大型辞書とはほど遠く、1000ページちょっと。ほんの偶然で、高校に入る時にこれを買って、それから数年間使いこんだ。世間ではジーニアスが覇権を握るずいぶん前、研究社の英和辞典が一人勝ちだったころの話。

で、何がすごいって、OEDの「簡約版」をうたっているところ。英語題がIwanami's Simplified English-Japanese Dictionary、このsimplifyが何とOEDを簡約したという。初版で12巻におよぶ超大型辞書をもとに、そこから見出し語を2割くらいまで減らし、定義を煮詰めて簡約し、元のOEDの相当部分を占める大量の古典からの例文をピンポイントで選択し、という作業を経て作られたのだった。

...だけではない。「英和」である、「英和」。元のOEDの語義説明をあくまで参考に、日本語で語義の説明をしているわけだ。辞書の中心部が語義の説明だとすれば、要するにオリジナルで辞書を作るのと変わらない、いやそれ以上。しかも、取捨選択するには、OEDを通読&精読(!)せにゃならないわけで、もう神業以外の何物でもない。もちろん、日本人学生が学習用に使うことも考えねばならないので、独自の情報も補充されている。

OEDの特徴の一つである歴史主義とは、文献上早い時期に出た用法から順に語義を配列していくことである。だから現代では使われない古い意味用法が最初に出てきたりする。んで、これを小型版の英和辞書でやったのがこの岩波の辞書。他に例を見ないのではなかろうか。

だから、読むと面白いのなんの。よくネタにするのだけど、humourの第一義が「(人体をめぐる4種の)液体」(上の画像でわかるだろうか)。中世の医学および世界観における、体液の配合で体調やムードが変わるという説における用法である。もう一つ、大迫力の中世ネタがorderの語義記述で、最初の語義が「等級・階級」。「秩序」や「命令」など、現代でよく使う語義は後に回されている。で、「等級・階級」の下位分類が「社会の階級」、「職業の同じ人々の団体」、それに続いて(これ盛り上がるところ>)「天使の九階級」。セラフィムから始まってケルビム、ソロネ...と続く。いやー、中二病刺激しまくりだわ(当時は高校生だったけどw)。もちろん、今どきの学習用辞書にはこんな情報はあるわけない。

そういえば辞書を読みながら、中二病心を刺激する語があると、そこのページに折り目をつけていたことを思い出す。今見直して、パッと見つかったのが、ultima Thule「世界の果て、極点、極北の地」(苦笑...果てしなく苦笑

当時書こうと思っていた小説モドキのネタにでもしようと思ってたんだろうな。他にも見返すと雅語・特殊な単語、神話関連の単語とかに折り目の印がついていた。もっとも、たかが高校生、まして大学付属で受験と無縁だったこともあり、知っている単語も少なく、大学生くらいなら誰でも知っている単語、reminiscence「追憶」とかkaleidoscope「万華鏡」なんかに印をつけているあたり(きっと当時は雅語だと思ったんだろう)、なかなかアホっぽい。

実は少し前、岩波の編集の人と話す機会があって、この辞書の話をしたのだけれど、たまたま知らなかったので(辞書部じゃなくて科学系の人だったし)、自分なりの妄執を整理しておこうと思った次第。最近は岩波もオンデマンドに注力を始めたそうだから、再びこの辞書が世に出ることがあったら胸熱だ。なんせ、自分にとっては「宝具」の域だから。