2021/05/31

日吉(Jun. 2007)



 

大日本帝國聯合艦隊は、大戦後期に横浜市内のさる所に地下壕を設営してそこに司令部を移転した。現・慶應義塾キャンパス、特に付属の高校(慶應義塾高等学校、通称「塾高」)周辺である。

ある時期までは出入り口の管理も厳重でなかったが、いたずら半分で入った人間が酸欠だか何だかで事故が起きたので、それ以降は決まったときに管理人の許可を得て入れるようになった、とのこと。

 

保存会ではそれなりに頻繁にイベントをやっているそうだが、今回のような公開ツアーは毎年梅雨時に開かれるそうで。前から存在は知っていたので、知り合いのつてを頼って、ついに参加を果たした次第。この日も雨だった。リアルタイムで当時を知る方々は、まだご存命の方もいらっしゃるとのことだったが、今回はやや若い(といっても60−70代くらい?)の方が案内して下さった。

あの戦争といっても、漠然とした観念しかないわけで、こうした施設を見て感じることも、おそらく現実とは離れているのだろうけど、目についたこと、気になったことはやはりいくつもあった。

例えば、施設の頑丈さ。物資が本格的に欠乏するより前に作られたとはいえ、今でも核シェルターとして通用するんじゃないかというくらいだ。「地下壕」という言葉からは、背をかがめて狭い坑道を進むというイメージがあるが、そんなものではない。ドーム状の通路はいちばん高いところで3メートルくらいあったのではないか。幅も車がラクに通れるくらい。居住性もかなりよい。上級士官用のスペースなどはことに設備もよかったそうだ。内部は基本的に当時とほとんど変わっていないそうで、湿っぽくもひんやりとした空間は、戦争末期も同じだったのだろう。

上の写真は天井をとったもの。電球そのものは取り外されているが、見ての通り木製の取り付け部は残っている。ロウソクでもランプでもなく、当時最先端だった蛍光灯をとりつけていたのだそうだ。


 

順番は前後するが、これが入り口。

 

内部はこんなぐあい。備蓄スペースもそうとう余裕をもって作られていた。考えてみれば、海軍にしてみれば最後の戦力をすり潰した沖縄戦の通信や、終戦の玉音もここで聞いていたということか?ガイドの方によれば、沈みゆく大和からの通信は痛ましいもので、被弾して何度傾いたとか報告するうち、やがて暗号電文でなく、最後には平文の電信が届いたとのこと。やりきれぬ話である。

以下は妄想だが、「終戦のローレライ」という小説がある。この作品のキーの一人に、浅倉大佐という狂気をたたえた人物がいる。複雑に入り組んだ地下壕の横穴あたりから、いきなり彼がぬっと出てきそうな錯覚をおぼえた。

 

外に出れば、梅雨のさなかの青々とした雑木が茂る(坂が滑ったんで手ぶれご容赦)。短いタイムトンネルの終わり。こうした会があることを知るきっかけとなった人(母校の先生だが)は、当時は「国民学校」で穴掘り労働をさせられという。ここの地下壕かどうかは聞きそびれたが、どこも同じものだったのだろう。